「三船様っ、心配しておりました。ご印鑑は...」
後光の人は、フロントから僕らのところまで、前のめりになりながら駆け寄って来てくれた。
わずか3メートルあまりの短いその距離を、小走りにやって来る姿に、後光の人が母との電話を切った後、かなり気を揉んでいてくれていたであろうことが伝わってきた。
無理もない。
『当ホテルのすぐ向かい。徒歩4分!』
この言葉に嘘はなかった。実際には言ってないけど。
しかし、僕らが戻ってきたのは約1時間後...。
「説明が不十分でございました。申し訳ございません。お疲れでしょう」
後光の人は深々と頭を下げた。
「いえいえ、こちらの勘違いでしたから。お陰さまで無事に印鑑は買えましたから」
そう答える母の側で僕も頭を下げ、少し汚れたズックのつま先を見ながら、(ちぇ!不親切なおじさんだな)と思ったことを心から詫びた。
おずおずと顔を上げると
「では、お荷物と一緒にお部屋にご案内いたしますね」
と、後光の人は、爽やかな笑顔を返してくれた。
今、後光の人に、後光は射していない。
けれどその笑顔は...スーッと真っ直ぐなズボンの折り目のように実直なホテルマンの笑顔そのものだった。
ぜったいに皺になんかならない、ズボン。
ワゴンに荷物を載せたお姉さんに案内され、エレベーターに乗り込んだ。
4、5、6...オレンジ色のライトは移動していく。
信号待ちの時にリンクしたエレベーターの中とは違い、まったく焦る気にはならず、1つ、また1つと上がっていくライトを見ていた。
そして、つい一時間半ほど前に着いたばかりの東京なのに、もう随分と前からここにいたような気分を味わっていた。
案内された部屋の窓からは、さっきまで僕たちが右往左往していた赤坂の街が見下ろせた。
僕はレースのカーテンを開けた。
あのあたりが、サンドウィッチ屋さん、そう、あれは床屋さん、それから八百屋さん、そして、印鑑屋さんとあの狭い路地...。
僕は右肩に付いていた埃を手で払った。
その僕の後ろ、母は事前にホテルに送っていたスーツケースから、僕のズボンやブレザーを取り出しては、ハンガーに掛け始めた。
「ああ、ホッとしたら急におなかすいたわね~。これが済んだら何か食べに行こ...あっ!」
のんびりと見下ろしていた赤坂の街が、一瞬にして凍りついた。
今度は何??
つづく
次回予告
いよいよ最終話だって時に、「あっ!」て言われも困ります。
でもこれこそが、旅の醍醐味なのかもしれません。
お楽しみに!









